INTERVIEW

「マチュー・カソヴィッツ監督インタビュー」

ーなぜウベア島事件と当事者であり原作を書いたフィリップ・ルゴルジュ大尉に興味を持ったのですか?

いまから13年前にウベア暴動での人権侵害に対する報告書を読むよう父から渡されたのが始まりです。それには当時起こったことが事細かに書かれていました。事件当時、私は18歳だったので、まさにリアルタイムで経験していて、読みながら自分の記憶を思い起こしたりしたのです。TVでの報道のひとつに、カナック族が鉈で人質にしていた警官たちを虐殺し、断頭処刑やレイプが横行していたというのがありました。だからフランス軍は正義を行ったのだと、当時のシラク首相が演説していたのを覚えていました。しかしその本には全く別のことが書かれおり、そこには19人のカナック族が処刑され、その遺体には虐待行為の痕が残っていたとありました。1988年の4月から5月にかけての10日間の物語がすべて詳細に書かれていました。にわかに信じがたい話でしたが、一人の人間の目を通してすべてが再現されていました。
政治家と軍部が手を結び、人質奪還のための交渉人として、フランス国家憲兵隊のエリートである指揮官ルゴルジュ大尉が選ばれました。事件は当時の大統領選の最中で、シラク首相がフランソワ・ミッテラン大統領に果敢に攻めていたまさにその頃に起こりました。その後、『クリムゾン・リバー』撮影中に出演していた俳優のオリヴィエ・ルセと泳ぎに行ったことがあり、その際、彼が1989年にニューカレドニアに6ヶ月間住んでいたこと、そして88年の事件の体験者に話を聞いたことがあると話してくれたのです。彼はあの土地を愛し、またそこで恋に落ちたということもあり地元の人たちと話す機会がよくあったのです。その時もちょくちょくニューカレドニアを行き来していたんです。だから、私は彼にカナック族に会いたいし、その時のことを知るためにそこに行けるか聞いてみたんです。

ーその時は、もう映画化を考えていたのですか?

そうですね。あの本には映画にせずにはいられない要素が書かれていましたし、10日間の出来事ということも劇的だと思いました。まあ、最初に向こうに行った時は映画の話はせずに、ただ、その辺を見て回ったり、話のできそうな人を探したりくらいしかしませんでしたけど。ただ、現地で映画を撮れるかどうか、またその映画は必要とされるのか?ということを考えてはいました。事件からもう10年経っていましたが、現地の人々はまだ悲しみを引きづっていました。あのテーマはタブーとなってはいるものの、その土地は閉鎖されているわけではありません。カナック族の部落の中には宗教的な、または政治的な争いがいくつかあったんです。処刑された19人のカナック族は、みな同じ部族か家族でした。オリヴィエは僕にマティアス・ワニュース(カナック族の長であり、ビジネスや部族の政治的指導者)を紹介してくれました。マティアスは知り合って間もない僕らを泊めてくれたんです。彼は部族の習わしを話してくれ、様々な派閥と共に我々を認めてくれた。マティアスは、私たちがあの事件を映画にできるようになるには少なくとも10年は必要だと言いました。滞在していた10日間、私は国を見て回り、そしていろいろな人に出会いました。家に帰って脚本を書き始めた私は、5年間、ニューカレドニアを行き来し、調べたり映画を作ることについて意見を聞いたりしました。その度に私たちは、彼らの部族の習わしとして儀式に参加しなくてはいけませんでした。

ー「習わし」をあなたはどうとらえたのですか?

習わしというのは、暗黙の了解で終わる議論であり、それが共同体の和をなすものなのでむやみに壊してはいけないと感じました。カナック族の社会ではある人の言葉が土台となっていて、それにはものすごく価値があり、絶対的な責任も伴います。が一方では、すべての物事が宗教的でもあります。ニューカレドニアでは、すべての物事は習わししだいです。話し合いも非常に興味深い。まったく初めての体験でした。そうした議論が数時間どころか、数日続くこともあるのです。話し、聞き、そして決定するだけの時間はありました。私たちはそのすべての課程をオリヴィエと行いました。彼らは「みんなが同意したら、映画を作ってもいい」と言ってきました。我々は「みんなとは?」と聞きました。「被害者のすべての遺族だ」彼らは答えました。「習わしでは、死んでしまった者たちのことで話ができるのは遺族だけだ」。結果として、私たちは40人以上の遺族を探しあて、映画をどうして撮りたいのかを説明して回りました。
初めから私にとって物事を複雑にさせていたのは、フィリップ・ルゴルジュの視点からこの物語を描きたいということでした。カナック族は、フィリップが約束を守らなかった、いや守れなかったためにフィリップのことを裏切り者だと信じていました。

ールゴルジュの視点にどうしてこだわったのですか?

なぜなら彼がこの物語の根幹にいたからです。事件は彼にとって非常に困難であり、人生に一回あるかないかのことで、故に強力な生命体験となっていました。当時私は彼の本は読んでいたものの、実際にフィリップとは会っていませんでした。「La morale et l'action」(倫理と戦闘)は彼と反乱部族のリーダー、アルフォンス・ディアヌとの間の信頼関係がどんなものだったのか、またその信頼関係を彼の意志とは別に裏切らねばならなかったことが鮮明に描いていました。まさにシェイクスピアですよ!もっと言えば、彼が自分の信念を守れなかったために、彼の観点から描くのが非常に映画的だと思ったというのはありますね。私自身カナック族ではありませんし、カナック族の言い分を主張するためにここにいるわけではないのでね。
また、映画の主な観客の立場からしてみたら、近所に住んでいるような白人の男を主役に持ってきた方が、その男が異文化の人間たちと出会い、体験するすべてがものすごく強力な説得力を持つと思いました。レゴリュスの目を通してこそが政治的また人間的ジレンマを描けるのです。40人以上の遺族に説明をして回っている間、私は何度もそのことを説明しましたが、彼らは「ルゴルジュは裏切り者だ」というのを変えませんでした。私は、ルゴルジュがしたことを描くが、彼を英雄であるとか、また裏切り者であるとかそういった風には作らないと彼らに話しました。時にはかなり緊張した状況に陥ることがありましたが、誠実に話したことで、全てがうまくいったように思います。
遺族の中に若い25歳くらいの男性が5人ほどいました。彼らの父や叔父が殺された時、まだ5歳くらいだったそうで、そのため白人、特にフランスから来た私達を非常に警戒していました。彼らはまだ父親や叔父が銃弾を受け地面に倒れたその情景を胸に生きていました。それが事実だっただけに、誰もそのことを彼らにちゃんと話さなかったことも悪い方に向かっていました。実際に何が起こっていたのかが判明しなければ、想像は悪い方へと拍車がかかるからです。一部の人々は、古い傷を開くようなものだと私たちを非難しました。しかし逆に何が起こったのかを明らかにすることこそが、傷を治すことなのだと私たちは説得しました。

ーこの物語の何があなたをそんなにも惹きつけたのか教えてください。

フランス国家憲兵隊のエリート将校と、独立を望むカナック族の若き指導者との間に育つ関係ということでしょうか。彼らは全く違う個性でしたが、同じ波長ですぐに打ち解けあったのです。彼らは同じ目的にたどり着き、正義がなされることを必要としていました。フランス国家憲兵隊というのはいわゆる特殊部隊ではありません。彼らはみな自分の哲学と倫理を持っているのです。もし誰かの死が想定される指令が来たなら、彼らはその命令に背くでしょう。ルゴルジュは僧侶になりたかったのです。1968年に加わった暴動鎮圧部隊と共に戦いました。
アルフォンソ・ディアヌもまた司祭になりたかった。彼は7年間神学を学んだあと、心ならずも民の為の自己犠牲の観点から、暴動に加わりました。似た者同士でありながら、敵対する関係というのはとても魅力的でした。私はフィリップに彼らと友人になれたかどうかを尋ねました。しかし彼は「友人というよりは、仲間のようなものだった」と答えました。そのことこそが惹かれた理由です。人の立ち位置に私は本当に惹かれるのです。
そして、この物語の背後には恐ろしい不正があり、それがすべての物事を決めてしまうのです。この事件が選挙戦の最中でなければ、もっと話し合いに時間をかけることができたでしょうし、もしかしたら死傷者も増えることはなかったかもしれないのです。政治問題(私がこの事件を丹念に調べ始めてから徐々に浮き彫りになっていったのですが)というだけで、すべてを圧したのです。政治家たちは、自分たちの利益を考え、人質の犠牲を強いたのです。そこには尊敬も対話も言い換えれば知性のかけらもありませんでした。それは全てではないけれど、フランスの都市部でよく見られることなので、私にはそれがどんなだったか想像できます。そしてまた、この物語は説得力のあるもの普遍的な様相があるのです。人々の資源を奪うやり方それは法であったり、決まりごとであったりしますが、そのやり方を彼らは強いられます。そこは彼らの元からの国なんだから、彼らの文化で通用するという考え方はないのです。加えて、大統領選の最中という圧迫!それが事件の結末をあのようにした最大の原因です。

ー監督し演じるにあたって、難しかったことはありましたか?

実際のルゴルジュは、プロの軍人でした。軍人というものは自分の感情を表しません。それでそう努めたのですが、かえって皆さんに判断のつかないことをしてしまっているのではないかと悩みました。ルゴルジュに会う前、私は彼のことをもっと感情あふれるキャラクターにしていましたが、彼と出会い、そういう職業意識に対して監督としても、俳優としても影響されました。それは私が彼の話から一歩距離を置き、歴史として物語ることを可能にしたと思います。
ルゴルジュは単に物語の案内人です。彼が泣いたり大声を上げたりするような人間ではないと知ったことが、彼の目線を映画のリズムに結び付けられたのではないでしょうか。事実、俳優としても監督としても私は同じ問題を抱えていました。常に冷静でいなくてはいけないのに、そうできなかった。私だけは現場を混乱させてはいけなかったし、もし事態が悪くなってしまったら、なんとか体制を立て直し、私のために働いてくれる撮影隊や俳優たちを維持しなくてはならなかったんですから。

「イアベ・ラパカ インタビュー」

ーマチュー・カソヴィッツがウベア諸島で起きた事件を映画化する話はいつどこで知りましたか?

3~4年前でしたでしょうか。ニューカレドニアの地元マスコミが、あそこでカソヴィッツ監督が映画を撮るということと、そのためのスタッフをすでに送り込んできたということを報道していたんです。特に僕に、というのは2010年の4月後半、ちょうど僕が試験勉強真っ盛りな時でした。電話があったんですよ。「やあ、僕はデヴィッド・バートランドだ。マチュー・カソヴィッツが今度監督する『裏切りの戦場 葬られた誓い』という映画のキャスティング・ディレクターをやっているんだが・・・。」もう、いたずらだと思って「ああ、そうですか」って電話を切るところでした。しかし彼が「いやいや切らないで。ジャン・ボイセリエからの紹介なんだ」ジャン・ボイセリエは俳優で"長老"でもあります。彼は1960年に故郷を離れフランスにやってきました。彼がデヴィッドと会った際、彼がカナック族とGIGNの役を映画のために集めているということと、アルフォンス・ディアヌができる人間を探しているとジャンに話したんです。それでジャンは僕を思い出してくれたわけなんですが、その時ジャンは僕がアルフォンスとつながりがあるなんてこれっぽっちも知らなかったのです。彼はデヴィッドにこう話したそうです。「彼の電話番号を教えるから、最初に電話をすべきだ。じゃないと、彼は乗ってこないよ」と。

ー俳優をやろうと思ったのはなぜですか?どうして役が回ってきたと思いましたか?

ないです!小学校のころに、2回学校の劇に出演したくらいで、楽しかったことは覚えていますけれども、本当にそれだけでした。やろうと思ったのは、深く考えなくてできると思ったからです。故郷では、-----カナック族のコミュニティと言う事ですが----僕らは個人的なアプローチを取りません。僕らはひとつのところに家族と共に住み、お互いを尊重しあっているのです。僕は結婚していませんので、そこでは子どものような扱いをされます。そんなわけで、僕は家族・親に映画に出てもよいかお伺いを立てねばなりませんでした。許しがなければ出演はなかったでしょう。最初に、僕は兄にこのことを相談しました。彼はその時南フランスに住んでいたので近くだったのです。兄からは「カソヴィッツに会って、彼がウベアで会った人や、どうしてその映画を撮りたいと思うのか、そして彼があそこで何を調べたのか聞いて来い。話はそれからだ。彼が何を見聞きしたかによって、仲間に話すかどうか決めようじゃないか。」と言われました。僕はマチューに会い、そうした疑問をぶつけました。彼は僕に映画制作の意図を説明してくれました。脚本も渡してくれ、ディアヌの実の姉が僕のおばなのですが、彼女はこの映画製作にすでに賛成してくれていました。マチューには、映画に出るには両親の許しが必要であること、それには物語を話さなくてはならないと伝えました。両親は「おばさんが同意したんなら、やればいい」と言ってくれたんです。

ー事件の時、あなたはまだ子どもでしたね。そのことで覚えていることはありますか?

1988年当時、僕は6歳でしたので、直接あの事件には関わっていません。加えて、僕らはあの事件自体の話をあまりしてこなかった。議論しないことが議論の代わりではないけれど、親が子どもを守るだとか、話をすることで心が悪に染まってしまうのが嫌だとかの理由で、そうしてきたのです。あの事件が悲劇だということははっきりしていますが、しかし、政治的な視点から見てもとても複雑だったと思います。

ーあなた自身も運動に参加しているのですか?

今僕が言えることは、僕らの歴史もしくは僕らが生きているこの時代こそが、一つのチャプターだということです。先ほどお話しした通り、僕らが言葉を発する時というのは、けして一人でのものではなく、その言葉は家族の総意ということになります。だから僕は思いを言葉にする際、恐れはしないけれど躊躇することがよくあるんです。これが本当に正しいのか?それを確信しないとね。 ウベアの洞穴で起きた事件は、あの土地で行われていた独立運動の最も激しい期間1984年から88年のことで、結果的にはその猛々しさは消え、マティントン協定が締結されることになりました。その出来事をお話しするということは、つまり討論をしていた期間のことを話すことと同じなのです。その期間、私たちなしに討論は進められ、私たちの側の話は受け入れてもらえなかった。
その理由の一つにはマティントン協定にある一文のためでした。それはあの事件に関わった全ての人々に、それが維持派だろうと分離派であろうと恩赦が出、家に帰れるとあったのです。それが問題でした。"恩赦"というのはギリシャ語の"健忘"に起源を持つ言葉です。法的な裁きを回避するために恩赦を受け入れるということはまた出来事を忘れるということを意味するのです。マチューの映画ではこのことを大胆に描いています。どちらを選ぶかについてではなく、教科書や学校で教えているような作りごとをせずに、あの事件をシンプルに語っているのです。僕は今自分の考えを、故郷に戻った時と同じように、あなたに話しています。物語はカナック族の土地で起きました。それなのにフランスの話として語られている。この物語は僕らの歴史なのです。そしてまた普遍的な話でもある。あなただって軽い感じの叙事詩にドラマは感じないでしょう。僕に関して言えば、僕はこの企画に加わったのは本当に後の方でした。回りまわって僕のところに来た企画が、こうして映画となり、僕の疑問に答えを出しているのです。

ーアルフォンス・ディアヌに選ばれた後、どうやって役に近づいて行ったんですか?

役が僕に決まったというのは、まあ自然なことのように思いました。故郷から戻ったオリヴィエ・ロジェから聞いたんですが。(ディアヌの妹の)僕の伯母パトゥが彼に手紙を書いたんですね。それで僕は彼女に電話をしました。彼女は故郷にいる母と同じやり方で僕が役に付けたことを励ましてくれました。僕はアルフォンスの仲間や、洞窟で共にいた人々から彼に関する知識をずっと培ってきていたので、その記憶が頼りでした。わからないことがあったら彼らに尋ね、ポリネシアのアナーでの撮影時に一緒にいたスタッフ・役者たちにそのことを共有できたのです。

ー映画についてここを見てほしいというのはありますか?

カナック族が彼らの独立を勝ち取るための努力を理解してほしい。これに尽きます。そしてまた政治家は彼らの責任というものを思い出してほしいと思います。なぜなら彼らは都合が悪くなるとすぐに保身に走りますから。政治とは報復のようなやり方での争いを止めるためのものであるべきなのです。この映画のフランス題名はそれを述べているのですが、残念なことにそれが違う意味にとられていると僕は思います。というのは、おそらくフランス植民地の決まりとモラル、それに対するカナック族の精神と倫理だと皆さんは思っておられるのではないでしょうか。もしくはフランスの決まりと人々のモラルが植民地を維持し続けると。対政治家のモラルというのは、それを示すよう指示されたかによるのです。政治家がフランスを裏切ったか否か?彼らはフランス共和国の民主主義を裏切ったかどうか?民衆は自分で判断できるのです。それはカナック族だって同じはずです。僕らの伯父たち、父親たち、そして若者たちはそのことのために戦い、文字通り戦士となりました。それもこれも政治家たち(カナック族の相談役だったカナク社会主義民族解放戦線FLNKS)が責任を取らず、彼らを守らなかったからです。

「フィリップ・ルゴルジュ インタビュー」

ーマシュー・カソヴィッツがあなたの小説を基にした映画化企画があることはいつ知りましたか?

2004年か2005年です。彼から直接電話をもらいました。私の本を映画化したいということで、すぐ会うことになりましたが、1990年に書いた本を映画用に自分でリライトしたことは話しませんでした。

ーそれはなぜですか?

ウベア諸島で起きた事件は、本の一部に過ぎなかったからです。私はあの本を現役生活の詳細な報告書として書き、引退したのです。本を書くことは、私のそれまでの人生にアウトラインを引くようなものでした。フランス国家憲兵隊一筋だった私が、それをやったことで一般人の生活に気持ちを切り替えられたと思います。終わらせるためには、何か形になるものを残さなくてはと。それで本を書いたのです。出版社はこの本が映画化できるかどうかを検討していましたが、私は映画化されたとしてもハリウッドのアクション映画のようなものにはならないだろうと思っていました。実際、アメリカの製作会社からは何度か映画化権のオファーがあったのです。しかし、私はいつも断っていました。そんな頃にマチューが非情に魅力的な説明で、映画化の企画について話してくれたのです。彼はウベア諸島の旅から戻ったばかりでした。あの島で、彼は事件の実際の感触をつかんできていました。彼の考えはとても興味深く、私たちは幾度もミーティングの機会を持ち話し合いを始めたのです。彼の父、ピーターにもお会いしました。彼はウベアでの事件についてのドキュメンタリーを作りたがっていました。

ーカソヴィッツは脚本執筆中にあなたの意見を求めましたか?

もちろんです。私は初期の台本を読ませてもらいました。その後2,3年は何も連絡はなかったのですが、しばらくして彼からコンタクトがあり、再び動き出したのです。脚本にダンが参加し、私の戦友でもあるブノワ・ジョベールも加わり、私たちはようやく前に進むことができたのです。マチュー、ブノワ、そして私たちは一ヶ月に何度も会いました。マチューはよく私のナントの家を訪ねて来てくれました。私たちは詳細な検討をし、それは夜遅くまでかかったものです。マチューは私に所属部隊による気構えの違い、それはその部隊によるものですが、軍人それぞれの個性などの違いの説明を求めました。そうしたものが各隊の個性を作ることですし、軍隊に近づくことでもあります。2009年になって、マチューは脚本の最終稿を一人で書き始め、執筆中の彼はとても魅力的でした。彼はまるでスポンジのようでした。同時に、彼は私が相容れなかった人々を含む、首謀者側の意見も聞いていました。いくつもの情報が彼には必要だったのです。彼は深く事件を追及し、成果をあげました。2010年の夏、私の記憶が確かなら22稿目の脚本を書き上げ、撮影を始めました。これはマチューの映画であり、私のものではありません。ですので、私は撮影時口を挟まなかったし、映画のストーリーについても意見をのべていません。マチューを信頼していますし、彼は危険があることを十分わかっていたはずですから。

ーどういう意味ですか?

私はマチューの性格がよくわかっているので、彼の仕事のやり方をよく知っていると言うことです。撮影中も何度も脚本を書き直したことでしょう。私が最初にラフカットを観た時、映画製作という仕事の複雑さを知りました。マチューは主演をやりながら監督もしていたわけですから、もっと大変だったでしょう。しかし、会社は彼が主演することを強く望んでいたのです。ラッシュを観た時にもっとも驚いたのですが、私という存在は常に映画に映っているのですね。この映画は私を中心に進むということは知っていましたが、さまざまな角度から事件を描いているところはとてもすごかったです。試写の間中、私は音時の連続でした。もちろん5分後、何とか我に返りましたが!すでに私の中では区切りをつけた出来事です。しかし映画は私を過去に戻し、あの時に感じた憤りや力強い感情で胸がいっぱいになりました。とにかく、1988年に真実何が起きたのかを、自分のしたことが正しかったのだと思いたかった。マチューの繊細な描写によって思い出してしまったのです。

ー彼はなぜこの題材を扱いたかったのでしょうか?

それは、私にとっても謎です。おそらく、彼が最初に行ったニューカレドニアへの旅行で、カナック族たちに深く心を動かされたからでしょう。それまで彼はメラネシア文化について何の知識もありませんでしたが、あそこに行ったことで彼は衝撃を受けたのです。またこの物語自体異なる人種間での対立や、戦闘経験のある軍人や、また政府の中でも高い役職に就いているものでさえ、人として軽蔑を感じてしまう国家のやり口を描いていますから、彼はそこに惹かれたのではないでしょうか?マチューが反乱軍に感情移入しているのは明らかです。個人的には、この20年間私は同じような特徴、特質及びその価値観によって打ちのめされてきました。軍事や商売、また人道主義の環境これらが世界政治の力を弱めているのです。私たちには知的で、素晴らしい訓練を受け、さらに高い政治力をもつ政府があります。彼らはあたかも自分たちが重大な心理的苦悩に直面しているという態度をよくとりますが、これは彼らが自分たちはひきょう者ではないと装っているのに過ぎません。なぜなら、彼らは困難に屈しないという姿勢を強く打ち出すことができますし、自分たちでもそのことに何の疑いもないのですから。それは全くの真実であり、ウベア諸島での出来事はそのことを証明しています。

これに関わったどの派の政治家たちも―シラクvsミッテランvsカナク社会主義民族解放戦線FLNKS―ですが、彼らは総じて軽蔑に値する人間たちでした。彼らは悲劇しか生み出さない作戦のためにそこに人を送りました。「さあ、愚かな行為をやめさせるために集まった人道主義の面々です。―みなさんが彼らを送り出すことで、この事件は良い方向で簡単にそして迅速に終結させることでしょう。」と報道されます。しかし、ご期待に添えず申し訳ないが彼らはそんなこと聞いていないのです。もし本当に私たちが本来の作戦をやれていたなら、誰も死なずにすんだでしょう。私が交渉に失敗したことはこの一回だけでした。言い訳をするようですが、政治家たちが私の仕事を邪魔したのです。今でも私はあのほら穴に記者たちを連れて行く許可が下りていたなら、それが平和的解決・人質解放に向かったと信じてやみません。あの時、ディアヌはフランス全国放送でのTVインタビューに出演するはずでした。そうして私たちは、あの事件を平和的解決に向かわせるはずだったのです。しかしそれには問題がありました。私たちがそれに合意した時、その日曜日にフランス大統領選挙が迫っていました。このままでは誰の得にもならない。特に政治家たちには。先ほど述べた3者とさらに左翼を含めて。彼らはミッテランがいかに利口で、大統領になった暁にはどんな見返りがくるのかを知っていました。そんなことを知ったら、誰だって政治家たちに怒りを覚えるでしょう?

ー今日この映画が製作されたことの重要性をどう思われますか?

これはフランス政府の政治力のなさを説明するに値する重要な映画です。ド・ゴールが亡くなったのでもう言ってもいいでしょう。将来、同じようなことが起こった時今回のような結果にさせないためにも、歴史的失敗をふさわしい方法で研究できるようにするためにもこの映画は重要なのです。失敗について話さなかったり、否定するよりもその方が失敗から回復するのにいいと私は思います。ですので、歴史的事件を何度も振り返ることは重要なのです。それは未来の話だけではなく、現在についても言えることです。私は今まで今回と同じような事件に詳しくないので、これだ!という定義ができないのですが・・・。

ーあなたの本では、勝利的結果―人質解放―を主に話されていますね。それも何日かの間という設定でした。映画では、マチュー・カソヴィッツが時間を圧縮し、その分"勝利"へ導く攻撃の苦さを描いていますね。

とても優れたやり方でした。そしてとても賢いとも思いました。なぜなら、そうしないとル・モンド紙の記事を調査しないといけなかったし、そうしたら永遠に映画は撮れなかったでしょうから。私は最終突撃の前に部下たちにあたかも予告めいたことを話したことを覚えています。「今回の結果にならないようするためにいかに努力したか君らも知っているはずだ。しかし、その努力をしたとしても、この作戦を遂行しなくてはならない。それが私たちの職務なんだ。私たちはこの戦いに勝ち、ヒーローとして祀り上げられるだろう。しかしそれは長くは続かない。真相はいずれ話され、中傷されるだろう。すべての人からこれから何をしようとしても、その軽蔑に滴るペンによって批判されることだろう。」それがあの時起こったことなのです。それ以上のことは、突撃部隊の何人かによって、私が彼らに有無を言わさずやらせたとゴシップ記者や批判者に話したのです。